住職語り 『面白の島の四方山話』
信長の浅井に対する情と竹生島信仰
宝厳寺は延暦寺とつながりが深い寺です。ご存知の通り信長は比叡山焼き討ちを行っていますが、この宝厳寺には何もしませんでした。
姉川の合戦(1570年)の後、真っ先に竹生島に来た武将は信長です。
信長は戦いで浅井長政を打ち破りますが、心の奥底で長政の生き方を認めていたのでしょう。
長政には7回も降伏を勧告する手紙を送っているという説があり、浅井の地域では有名な話として伝わっています。
永禄元年(1558年)の宝厳寺焼失に対し、その後、長政は籠城しているにもかかわらずその三年間に宝厳寺復興のため竹生島に材木を寄付しています。山の木を伐らせて筏を組み材木を運んでいる様子を信長は見てはいたものの、それを攻めることはありませんでした。
さらに信長は、小谷城落城(1573年)の後に朱印安堵状(竹生島の建物と寺領を浅井氏と同様に安堵することを表明した朱印状)を持ってきて、この寺は自分が守ることを示しました。
一方、秀吉は小谷城の落城後、宝厳寺復興のために集められた材木で長浜城を建立します。そのため、お寺の復興はできなくなってしまいました。
「竹生島を守り尽くした寧々」でもお話しましたように、宝厳寺復興に関しては、秀吉よりも寧々による尽力があった可能性が高く、対して、信長は竹生島に参詣を行っていることが『信長公紀』にも書かれており、意外な信長の竹生島への信仰の深さに驚かされます。
宝厳寺弁才天堂
羽柴秀吉書状(複製)