住職語り 『面白の島の四方山話』

極楽橋の竹生島移築の謎!

宣教師ルイス・フロイスも絶賛!

大阪城の極楽橋の、ここ宝厳寺への移築に貢献したのが寧々だったのではないかというお話をしましたが、その極楽橋は1596年(慶長元年)に秀吉が架けた、大阪城北の丸と二の丸を繋ぐ橋だとされています。当時日本にいた宣教師ルイス・フロイスは絶賛して、「木造で総漆、金箔や宝石を散りばめ、彫刻で絵を描いた極彩色の50mほどの橋で、小櫓が太陽の光を浴びると素晴らしい輝きを放つ」と記録に残しているそうです。
その橋ができてすぐに秀吉が亡くなり(1598年/慶長3年)、1600年(慶長5年)に橋を崩して京都東山の豊国廟に移築されたことは醍醐寺座主三宝院義演による日記『義演准后日記』に記述が残っています。その後、1602年(慶長7年)に竹生島に移築したと豊国廟社僧の梵舜(ぼんしゅん)が『舜旧記』に書いています。

オーストリアの世界遺産・エッゲンベルク城で確認!

極楽橋と唐門とを結びつけたのは、2006年、オーストリアの世界遺産・エッゲンベルク城で確認された豊臣期大坂図屏風です。関西大学名誉教授 高橋隆博先生、大阪城天守閣館長 北川央氏らの調査で、極楽橋の正面の姿が竹生島・宝厳寺にある唐破風(からはふ)様式の唐門と酷似することがわかりました。唐門に残る牡丹唐草の彫刻の特徴も一致。これだけ豪華で大きな門ができるのは秀吉ぐらいしかいなかったのではないか、と言われています。大坂夏の陣で落城後、徳川幕府が徹底的に壊して埋め、新しい大坂城を築いたことからも、家康は極楽橋という秀吉の栄華の象徴が目障りで、ゆかりの竹生島へ移築したのではないかとも言われています。

宝厳寺唐門は極楽橋の入り口部分だとされる